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畑中蓼坡

高知出身。本名畠中作吉。畑中蓼坡(りょうは)は芸名。1904年(明治37)渡米、ニューヨークのアルピニー俳優学校に入学。同窓生にメアリー・ピックフォードがいて、卒業も一緒だったという。その後日本人相手のアマチュア劇団に加わり、滞米13年7ヶ月。1919年(大正8)帰国して劇団芸術座に入るが、20年1月松井須磨子が自殺後、芸術座解散。出版社・中外社の主幹内藤民治の支援を得て、同年日本新劇協会を結成、チェーホフの「伯父ワーニャ」の初演などで演出家兼俳優として活躍する。1920年(大正9)民衆座の「青い鳥」の演出に成功。舞台俳優としては正宗白鳥作「光秀と紹巴」の光秀が当たり役。また、1921年(大正10)井上正夫、水谷八重子主演の映画『寒椿』で監督デビュー、好評を博す。劇団を主宰する一方、映画『街の子』(1924年)『中山安兵衛』(1925年)『ノンキナトウサン 花見の巻』(1925年)を監督。11年続けていた劇団新劇協会は、1929年(昭和4)6月の公演を最後に解散。その後は、新国劇、新派などで俳優として活動。戦後は日活映画11本に脇役として出演した。

で知られている: Directing

お誕生日: 1877-05-02

出生地: 高知市, 日本

としても知られている: Ryoha Hatanaka

畑中蓼坡